「山月記」は教科書で読みましたが、その他の、「弟子」「名人伝」「李陵」は未読でしたねー。
感想としては、やはり「山月記」は心に響くなーと思います。以下、長すぎるかもですが引用。
何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない。
人間であったとき、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を倨傲、尊大だといった。
実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、知らなかった。もちろん、かっての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心がなかったとは言わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながらも、進んで師についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己の俗物の間に伍することも潔しとしなかった。
ともに、わが臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の所為である。己の珠に非ざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。己はしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。。
ちょっとあれな考え方もしれないですが、「山月記」を読む度に、果たして、僕は「人間」として相応しい生き物なんだろうか?なんて思ってしまいます。
僕の人生(20ちょっとですが)を客観的に振り返ってみると、李徴まではいかないとは思いますが(わかりませんが)、しかしながら、李徴と似たような思考、行動を取っていたような部分が少なからずあると思います。これは間違いないです。もちろん、僕が鬼才だった!なんて言うつもりはなくて、ただ、只管、自己を客観的に見つめることができず、李徴と同じく、誰かに進んで学んだり、切磋琢磨せず、また、かといって、遊びもそれほどしなかった。つまり、僕はこの5年間で、得れたかもしれない代物をみすみす失ってしまったのだと思います。
ひとつは「学」。そして、もうひとつは「社交」。
二つを得られる人はそう多くはいないかもしれないけど、ただ、たいていの人はどちらか一つは得ていると思います。もちろん、こういった思考や行動をとりがちになってしまった要因はいくつかあるにはあるのですけど(一応は理解してるつもりですが、客観的に受け止められなかったのかなと・・・)、しかしながら、結局は己次第でどうとでもなれたわけで、ただ、今は只管自己を受け止めるしかないのだと思います。
「人間」であれば、恋も造作なく出来たでしょうし、ポップミュージックが糞だと批判せずに、遊びも楽しめたことでしょう。